昭和47年1月10日 月次祭    (末永信太郎)   №47-004


 只今、神様にお礼を申させて頂いておりましたら、「常」という字を頂いた。見事な字で、常という字を。常持の常です。常という字を。三代金光様のご生涯を、あれは、三部ぐらいに分けて、三部か四部かに分けて書かれた本に、常の姿というのがございますですね。常の姿。
 これは、常ということは、普段、いつもという意味だと思いますよね。常に私が思うこと。いつも、私が思う事ということなん。今日は、まあ、その常という字を頂いたから、常ということについて、少し聞いて頂きたいと思う。ね。私どもが常に持ち続けなければならないもの。ところが、 常に持ち続けることが出けないのが、教えを頂いて、そしてその時は習うたと思うけれども、帰る時には、もう忘れておるということ。それを、常に持ち続けることが出けない。だから、常におかげを続けることが出けないという事になる。ね、惜しいですね。常におかげを頂き続けることが出ける世界におりながら。ね。その常にというものが無くなってしまう度に、おかげがそこで絶縁状態なんです。おかげが切れておるわけです。同時に、ここに思わなければならないことは、常に祈られておるということ。常に御取次の働きを私どもは頂いておるということ。生神金光大神の日夜を分かたんところの御取次の働きを、常に私どもは寝ても覚めても頂いておるということ。ね。教祖金光大神の願いというものが、常に私ども総氏子の上にかけられておるということ。ね。そこから、発しましてからの信心生活です。そこを分かってからの信心の受け止め方(遺憾?)によって、常におかげは頂き続けられることになるのです。ね。
 いかに、常にお働きかけを下さってあっても、御取次の働きがそこにあっておっても、私どもの心が、ね、常に持ち続けなければならないものを持ち続けることを得ずして、おかげを頂き損ねておるということになるのです。これは、今日は常という字を頂いたが、これは、大変に意味のいろいろ深いことだなと、今、ここに立たせて頂いて思うておる。常にということ。常に祈られておる、常に御取次の働きを受けておる私たち。そのお働きの中にある私たちが、生神金光大神様と心に唱えさせて頂く時に、そこに、金光大神の働きをキャッチすると言うかね。そういう働きを働き足らしめる。いわゆる、十全にして行くというところに、お道の信奉者の信心修行がいると思う。それを頂き続ける、常に。
 今日私は、ある方のこんな御取次をさせて頂いた。もう、三年、足掛け四年になるでしょうか。息子さんが嫁さんもろうた。もう、本当に私のようなところに、私のようなとこの息子に本当に勿体無い嫁を頂いてと言うて、あそこ半年あまりは大変、もういつも、参って来る度にそのことをお礼を言うようになった。
 半年目から、ちいっとばっかり、もう、最近の若い人達はね、もう、私どもの考えではお呼びもつきません。まあ、悪口じゃなかちゅう風で言われるわけ。いわゆる、割り切って、若い者を割り切っておられます。それが、それにいちいち気にしよったら、腹立てよるなら、ずうっと腹立てとかんなりません、という風になって来た。嫁さんが、いわゆる若い。いわゆる、ドライである。割り切った者の考え方をしておる。
 それから、だんだん一年ぐらい経ったらですね、いろいろと嫁さんに対するところの不平不足がそのお届けになるようになった。しかも、涙を流して、深刻にその嫁さんのために苦労をしておるというようになった。子供が出けた。ね。それから、段々、その孫はもちろん可愛いけれども、今度は、嫁の方はあんまり、本当に可愛くはないような感じである、私、お参りをして来て話されるのに。
 いわゆる、世間で言う、孫は可愛いけれども、嫁は憎いといったようなことなのである。憎いとまではいかん、信心しとるけん、やっぱ大抵、まあ、今朝の御理解じゃないけども、信心しとるけんと思うて、おっかさんが堪えてござる。ね。けれども、やっぱり、その堪えに堪えとるもんだから、月の内、何回か参って来る度にぐらい、親先生に聞いてもらわなければならん。
 はじめの間は、私の方には勿体無い。私ぐらい、家のぐらいな息子に来てもらうという嫁ですから、本当に勿体無いと言うておったのが、半年も経たないうちに、どうも最近の若い人たちは年よりの心が分からない。割り切っとる、ドライである。だから、もやもやするとか、ああいう腹を立てなきゃならん。立てるなら、ずうっと立てとかにゃならんと、こう言う。
 ああ、まちっとあげんもあってくれりゃ良いのに、まちっと、こげんもあってくれれば良いのにという思いが先行する。それが、先に立つ。ね。まあ、半年目ぐらいはそのくらいだったけれども、一年目ぐらいには、これは本当に涙を流して、実は家の嫁はこうでございます、というようなお届けがあり出した頃には、お孫さんが出けておった。そこで、まあ、お孫さんだけは可愛い。
 嫁さんは、だんだん可愛くなくなってきた。ね。そうしよったら、また、そのような、もう年子のようにして、また、次の子が生まれた。その間は、お母さんな(非常は苦労二代?)であった。二人目が生まれた時に、孫の世話も大変、また嫁さんも、こうだ、ああだという不平不足のことの中から、それでも最後には、まあ、おかげでそれで修行させてもらいますという風には言われる、なかなか出来ておられますから。けれども、その修行が本当の修行ではない、涙の出るほどに苦労である。
 もう、来る度である。それで私がですね、その頃、私が申しました。嫁さんが起きて、朝一番に起きてからご飯を炊いて、主人が勤めに出ておりますから、勤めに出す。その間は、孫と一緒におばあちゃんは寝とってもいい。ね。けれども、夕方にでもなると、また今度は、自分がいろいろとされる。嫁御がすると、どうも、(そういう?)ことなる。御馳走作りすぎるちゅうわけ。
 ほれで、大抵、その収入から、その考えてからすりゃ良いけれども、どうしても、その、高い物を買うてきたり、その、御馳走を作ったりする、と。それで、まあ、おばあちゃんが、私がやるという事になって、おばあちゃんが夕方のご飯を作られるというわけで。で、私が、とにかくね、あの嫁さんばもらった時に、家ぐらいなところに来てもらったという喜びを持ち続けるということは、まあ、難しいにしてもね、もう、自分が朝早起きせんでもよい、嫁がやってくれるという事だけでも、一つお礼を申し上げたらどうだろうか。ね。まあ、そういう意味のことを、私は申しました。
 そしたら、根がだいたい、非常に信心も出けて、理解力もあるおばあちゃんですから、本当にそげん言やあね、いわば、息子のことを一人で面倒見ておったのに、嫁が一切合切、息子のことは面倒見てくれる。まあ、お家のお掃除やらも嫁がやってくれる。段々、嫁がやってくれておるという事の、その分野というか。ね。そのために、自分が楽をしておるということが、非常に目立ってきた、お礼を申し上げるようになったら。つい最近、参って来てからです、お正月にお参りして来てからです、もう、打って変わってのお届けであった。先生、本当におかげを頂いて、もう、嫁ではない息子ではない、自分の心が豊かになれば、ね、自分が腹を立てんで済むというだけではなくてです、嫁自身がこの頃はおかげを受けて来たということである。もう、いちいち、おばあちゃんに訪ねるごつなった。今日はあれを買って、ああ、もう何でも良いから、都合ようして買うて来なさいち(言うということ?)。そすと、おばあちゃん、こげなんば買うて来たと言うて、一遍どん見せてくれるようになった。ね。
 だから、嫁がああ在ってくれれば良いと思うておる間は、ああ在ってはくれなかったけれども。ね。有り難いと思うところを段々広げて行きよったら、ね、最近では嫁がね、言うなら、痒いところに手の届くようなおかげを頂いてくれるようになった、と言うのである。
 私は、金光様の御信心はここだと、これだと思うですね。ただ、自分が辛抱しておくとか、自分が豊かな心でそれを受けておるという、ね、それだけでも良いです。ところが、今日頂くように、私どもが常に御取次の働きを受けておるということ。常に生神金光大神の御取次の働きが、私ども、または私ども一家の上に現われておるということ。ね。その働きと、私どもが、ね、不平を言うておったのを有り難いものに替えて行く。その世界がだんだん広がって行くという、道の教えを行じ、道の教えを元にして生活が出けるようにならせて頂いたら、生神金光大神の常に祈り、常に御取次を下さってあるところの働きが、自分の上にも自分の家庭の上に、いわゆる、自分の夢の上にも、そういう働きが起こってきたということが、言えるわけですね。私、そのことから、本当に有り難い、金光様の御信心はここんところをね、一つわからせて頂かなきゃいけない。ね。いわゆる、常に例えば、私どもが有り難いものを頂き続け、求め続けておる世界にはです、常に天地の親神様の御働きを生神金光大神のお徳によって、御取次を下さってあるその御取次の働きと、私どもの常に持ち続けておる、精進する、また、持ち続けておる良い心とが一つになって。ね。
 そこからです、いわば、夢にも思わなかったようなおかげというのが頂けてくるのです。ね。(今の一応、例を通りますとです?)、ね、なるほど、親先生から聞かせて頂いたら、嫁さんばもろうた時に有り難いと思うておった心を思うたら、不平不足どん言われん。ね。そして、その、いわば嫁の有り難いところ。嫁がおってくれるから有り難いと思うところを、だんだん広げて行きよったらです、自分の心にも有り難いものが広がって行くことになった。そこに、そのおばあちゃんの助かりがあるわけ。
 嫁に対する不平もなく、不足もなく、ただ、お礼を申し上げることだけになって来た。ね。そのお礼を申し上げるだけになったというだけでも、いわば助かっておるでしょうが。ね。だから、ここまではね、何々様だって、何々修養でもあんまり変わらんと思うですね。なかなか信心はなくても治まった人があります、修養を積んだ人があります。そして、今、私が申しましたぐらいなことは、もう、常にいわば日常生活の上に、例えば嫁御が悪いと言うて、嫁御の悪口どん言いよると、ね、自分ののんぼり向いて唾吐くようなもんだというようなことを、ちゃんと心得ておって、例え悪かっても、嫁が良うしてくれますから、嫁が良いからというようなことで治めて行っておる人はたくさんあります。
 けれども、これは一生経ったって、そうですよやはり、変わりはしません。自分の心もそれで助かったとは言えません。ただ、私が一人辛抱しときゃよかけん、ということになるんです。金光様の御信心は、少しばかり有り難いという心を広げて行く糸口を作るとです、糸口がちょうど解けて来るようにです、あれも本当おかげ、これもやっぱおかげたいと、こう思わせて頂けれるようになって来る。その思わせて頂く、精進しておる姿、精進しておる事柄と、生神金光大神が常に働きかけて下さってある御取次の働きとが一つになって、これが助かるだけではなくて、嫁が二人見るように変わってきたということ。
 これはね、嫁とか姑とか、人間関係のだけのことじゃないです。もう、全ての点にそれが言える。そういうおかげを、私は頂きたいと思うです。ね。まあ、自分だけが馬鹿を見る、自分だけが辛抱せんならん。もう、それは辛抱せにゃ家が治まらんから辛抱もするけれども、まあ、馬鹿らしい立場にあるというのでは、決してないのです。金光様の御信心はそこからです。2と2を足せば、4になるとか、5と5を合わせば10になるといったような計算ずくのものではなくて、そこから、5と5と足して25にもなりゃ、100にもなるような働きが生まれてくるということがです、御取次の道の働きを、いわば十全にして行くところの道を精進しておる者の信心生活の姿でなからなきゃならん。
 今日、私はこんな御取次をさせて頂いた。まあ、悪いことじゃないから名指しで申しますならね、今、小野先生が毎朝、朝の御祈念に参って来ます。皆さん、どうぞ、寒修行が、今はもう一生懸命、今日で七日間終わりました。もう、今度の寒修行は、もうはじめから、何かこう、熱いものを感ずるようなね。熱風を波乱だような朝の御祈念があっております。もう、ここへいっぱい、座るとこなかごとある。ね。
 しかも、やはり、今度はここのご造営ということがありますから、そういうところに願いをかけておられる方が多いです。ですから、その修行が非常に美しい。ね。だから、そういう、例えば合楽的信心の、その動きというものにです、お互いが便乗させて頂きませんとね、乗り遅れます。ね。皆さん、そういう意味で寒修行中に、ね、まあ、出けん事情もあろうけれども、何とか工夫して、五時の御祈念ですから、ね、お参りをされるように工夫をなさらなければいけません。いやあ、もう私だん出けんち。もう、決めずにですね、どうとかという、私は何だってです、もう修行なしに上達することは絶対ないですよ。これは、信心だけじゃない。ね。まして人間が、只今申しますように、ね、常に祈られておるその祈りを、常に有り難い心でキャッチして行こうという、おかげの世界。
 私は今から、今、申しまそうと言うのは、そこのところに、気を少しはっきり聞いて頂きたいと思う。というのは、長男がラサールに行っとります。今年が大学受験であります。いわゆる、そういう瀬戸際に立っておりますから、まあ、非常に子供思いであり、子供に熱心ですね。ですから、もう、その子供が休みに帰ってまいりますと、もう、必ず自分が一緒にお参りをして、ゆっくりとあそこで御理解を頂いて帰ります。
 まず、自分が聞くのじゃない、子供に聞かせたいというわけ、一念なんです。自分は毎日参って来るけども、決して聞かん。ツーッと参ってから、もう、ツーッと帰るというような、しかも、二十年続いておると言うですから、もう、それはおかげだけは、ほれは、もう、見事なおかげを頂かれるですね、この方は。
 私はそういうこともですね、今日頂いたんですけれどもね。あの、信心が出けんなりおかげ頂くとは、無精モンと仰るです。そげん言うと、ばさらかおかげ頂きよんなさる人には気のどっかごたるばってん、まあ、ちょっと言うならそうです。でないとですね、おかげばやらんとですね、もう、そげな人は参って来んですたい。本当に力を神様が下さって、もう、叩いても、いわば転がしても辛抱しきるという目処がついたら、そう簡単におかげ頂くもんじゃないです。
 そりゃあ、おかげ頂きよります、おかげ頂きよりますちゅうとは無精モンち。(笑)おかげ頂っきらんと、もう、私だん駄目ち言うちから、すぐ止むる人なんだ。本当に、そういうような例えば、まあ、稽古じゃなかろうかと思う。同時に、人の命を大事にされると、お医者さんですから、やっぱりおかげを受けるのかも知れません。そこの辺は分からんけれどもです、とにかく、長年の信心である、毎日お参りだけは(しんぼん?)されますけれども、自分の都合のよか時だけ参るという、そして、ただ願うということだけの、もう、専門屋さんです。(笑)何でん、やっぱ専門になるといいですよ。
 もう、絶対ですかね、この人は。わが言うことばっかり。そして、ただ息子が帰って来た時だけは、ちょっとあそこに御理解を聞いてから、息子にも聞かせんならんもんじゃから。ね。で、今度でも、さあ、勉強させて頂いて、ね、しっかりやれ、と。ところが、なかなか勉強、親の言うとおりにしない、眠たい。ね。ですから、さあ、お前だけ苦労はさせんという訳である。
 お父さんも朝は起きれんとばってん、朝の御祈念にあんたが試験をするまでは、この寒修行がはじまったから、お参りをするから、あんたもいっちょ、朝の御祈念にお参りをしよるつもりで、朝の御祈念に起きてから、の時間に起きて勉強をせろという約束を、ここで二人で、親子で出けた。だから、その翌日からたしかに参って来よる。で、昨日一昨日だけ、ちょっと遅う寝た。もう、照れくそうして、照れくそうして堪えん。神様に約束しとってから、参って来んじゃったから。いや、照れくさかっても参って来るところが、あんたのよかとこばいち言うてから、まあ、話したこっです。
 まあ、そういう何とん言えん、その、何というか、純情可憐なところがある訳ですよね、彼。(笑)小野さんが(     )なかばってんね。その方がね、今日も言われるわけです。ね。あの人の甥になる人が、あちらは何とか病院でしたかね。え?え?ああ、(にしんくん、にしん?)病院ですね。小野先生の妹さんが行っておられる病院です。そこの息子さんが、ここに熱心に参って来るわけです。ね。
 ところが、その、親父が金光様にばっかり参るけんで、その、勉強が出けんと言うて、大変その、悩みを感じておられる、お父さんが。ほれで、息子に言うけれども、息子が聞かん。そして、もう朝、もう親父が寝とる内に参って来る。そして、帰って勉強すりゃよかばってん、帰って寝とるげなもん、また。それけん、もう、(お前がまた朝も?)金光様にばっかり参ってからち言って、まあ、喧しいわけなんです。ね。ところが、その、私の流儀というか、私の息子はそうじゃないと、帰ってきた。私の息子にそげん言うとる。
 そして、その、まあ、上に言うたわけです。家の(ひではる)はね、この頃から、もう帰って来よってから、とにかく、お参りもせんならんけれども、こうやって積めた勉強があるから、その一週間の積めた勉強の間だけは、お参りをいたしませんから、よろしくお願い致します。その時間は、勉強いたしますからと言うて、神様にお願いをして勉強をすると、こう言う。
 だから、西見、お前もそう、まあ、しなさいと、こういう訳ですね。そすと、親も合点が行くじゃないか、納得が行くじゃないかと、こう言う。ね。ところが、これからが信心の言うなら、微妙さであり、デリケートなところなんですよね。いわゆる、合理的なんですね、小野先生は。
 だから、そういう信心でも良いのです。ね。ところがね、これは、どこまでも、やはり、おかげの世界であるということです。ね。自分の都合ということを中心にして、これから試験が始まりますから、毎日参りよりましたけれども、この一週間だけはご無礼を致しまして、お参りをする時間を勉強に当てます。なるほど、合理的である。勉強も出けるだろう。しかも、お願いをしてからのことであるから、ね、家の子供はそういう生き方をするのに、お前は試験じゃろうが何じゃろうが、もう、参ってから。
 そして、帰ってから昼寝どんしとるなら、親がどうこう言うはずたいと、こういう訳である。ね。けれどもね、その、西見くんの生き方はどういうことかと言うとですね、そりゃ、寝るということはともかくとしてね、その、例えば、試験が出来るとか出けんではなくてです、ね、本当に神様の願いが成就することのための信心なんです。私ども小さい人間の願いが成就するという生き方は、合理的な信心で、そげなことはいかんということは、決してないです。素晴らしいです、ね、合理的な。
 けれども、これは、あの世にも持って行かれなければ、なら、この世にも残しておけない。その事その事を、ただ、おかげにして行けるというだけなんです。ね。なら、そういう意味のおかげが一生続いたって、私は大したことはないと思うんです、実を言うたら。
 もう、合楽は徹頭徹尾。ね、神様の願いが成就することのための信心を、お互い目指しておるわけなんです。ね。ですから、親父から、言うなら悪く言われても、まあ、人から笑われても、お前は若い者に、その、そういう不合理なことしか分からんかと例え悪口を言われてもです、西見くんの生き方は、これがね、まあ、その、熱心に参って来とる訳ではないですけれども、そういう生き方は、神様の願いが成就して行くのです。神様が願いが成就して行くということは、どういうことかと言うと、私どもが、とてもとても夢にも思わなかったようなおかげの世界に住むことが出けるということなんです。ね。
 豊かな心の世界に住まわせて頂く。ね。豊かな物の世界に住むことが出けるのです。ね。ただ、おかげの世界に住む。いわゆる、お徳の世界に住む。ね、信心の、その人その人の建て前というか、ね、お徳を頂かんで良いという人ならば、いわば、小野先生のその生き方で、けっこう、やはりおかげは立派に受けておるということ。願いなら願いが成就しておるということ。けれども、これはね、神様に言うなら、お願いをしておかげを頂いたということ。神様に願われてのおかげ。神様が私どもの上に、常に願いをかけておって下さる、その常の願いというのは、どうぞ、氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、どうぞ、信心しておかげを受けてくれてくれというのは、徳の世界に住むことの願いを神様はかけておられるのである。ね。ただ、おかげの世界だけならば、決して金光様のことはいらん。ね。
 金光様の信心はどこまでもです、私はおかげの世界から、お徳の世界に住まわせて頂くおかげを頂かなければいけない。けれども、この合理的な信心をしておる人が、どのくらい沢山あるか分かりません、合楽でも。ね。惜しいです。ね。素性のよい信心を持っておりながら、ね、人間も立派でありながら、修行も当たり前にしておりながら、それが、どこまでも合理的な信心である。金光様の御信心は、ね、そこのところは分からん。言うなら、超合理的なんです。その合理的なものを越したもの。そこには、人から笑われるようなこともあるかも知れんけれども、そこのところを私どもは、一つ常に頂き続けれる姿勢を持たなければいけない。そういう心を持ち続ける信心をさせてもらわなければいけない。ね。
 合理的なおかげというのは、確かに5と5と足せば10になるという答えは出て来る。けれども、これはね、頂いたそのおかげをあの世にも持って行くことも出けない、この世に残しておくことも出けません・・・ (テープ切れ)